●ブッダ物語 まず毒矢を抜け

 かつてブッダが大樹の陰で瞑想なされていた時、近づいてきた男が、
「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、葉の数を知っておられるか」
と問うたことがある。静かにブッダは言い放たれた。
「知りたければ、そなた、数えてみよ」
 戯論に応ずることも、また戯論である。本質と無関係な議論に、ブッダは一刻たりとも使われない。生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからだ。
 ブッダのもとに、一人の弟子がやって来て、語った。
「世尊は私の知りたいことを少しも教えてくださいませんね。満足のいくお答えが頂けないなら、私は出家をやめたいと思っています」
 知りたいこととは、「宇宙には果てがあるのか」「世界はいつまで続くのか」などの問いであった。”それを知るのがさとりへの第一歩だ”とばかりに、彼は胸を張る。
 ブッダは彼に問うた。
「そのようなことを教えるから、我が元で修行せよと、そなたに約束しただろうか?」
“いえ、そうでは……”。修行者は小声であわてて否定する。
「もし私がその問題について説かないうちに、そなたが命終えたらどうなる?」
 ブッダの問いに、弟子の勢いは次第に萎えていく。続けてブッダは、例えで修行者を諭された。
「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。一刻も早く抜かなければ命が危ない。友人たちは、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』と勧めたが、男は、『いや待て。この矢はだれが射たのか。男か、女か。その者の名前は。何のために矢を射たのか。矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、この矢を抜いてはならん』と言い張った。やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」
 ブッダの言葉は続く。
「無常は迅速である。今、こうしている間にも、老いや病、そして死の苦しみが現実にあるではないか。われはこの苦悩の根本原因と、その解決の道を説いているのだ。人生の大事は何か。よくよく知らねばならない」
 己の過ちを知らされたその弟子は、深く反省したと伝えられている。

●ブッダ物語 命は足が速い

 ある時、ブッダがお弟子に仰った。
「そなたもこのごろは、命の短く脆いことがうなずけてきたらしい」
 合点して弟子は言う。
「本当にそうでございます。たちまち消え失せてしまいます」
「”たちまち”と言っても、感じようもいろいろだが……」
 ブッダの一言に、”仏さまの感じられる命の短さとは、どれほどのものなのだろう?”と、弟子は疑問を起こした。
「世尊がお感じになっているそれは、どれぐらいの速さでございましょうか」
「そなたにはとても納得できまい」
 そう聞いた弟子は聞きたい気持ちが抑えられなくなる。
 ブッダは続けられた。
「例えばここに、弓の名人が四人いるとする。そのうちの一人は東に、一人は南、一人は西へ、そしてもう一人は北を向き、それぞれの方向の彼方に的を定め、心を合わせて一度に矢を放つ。名人の放つ矢は目にも留まらぬ速さで飛ぶ。そこに足の速い男がいて、サッと走りだしたと見る間に、四人の弓師が放った矢を引っ捕らえてしまったとしよう。どうだ。この男の足は速いだろう?」
「それは速いです。とても速いです」
 興奮ぎみに弟子は言った。やや間を置いて、ブッダは仰せられた。
「それよりも、もっと速いのが人間の命なのだ。命は実に足が速い」

 命の終わる速さを自覚すればするほど、人は人生を真面目に考え、真に人間らしい生き方をすることができるのである。

ブッダ物語 あわれむ心のないものは恵まれない

 夕食の支度をしながら女は、朝の夫婦ゲンカが忘れられないでいた。
 夫は何かあると、すぐに彼女を罵倒する。今日も過って食器を壊したのを悪し様に言われたので、彼女はヤケを起こし、一日じゅう家事もせずに過ごした。
“このままだと、また主人にどなられる”。ようやく気づいて夕飯の準備にかかったのは、もう夕暮れ時。夫の帰りの遅かったのが、この日は幸いした。
 扉の外で力ない声が聞こえたのは、その時だった。怪訝に思って覗いてみると、老いた乞食が済まなそうに立ちすくんでいる。”どうか食べ物を”と請う老人を弱者と見て取ると、女は急に態度を変え、無慈悲に突き放した。
「私の家には、夫婦の食べるものしか炊いていない」
「それでは、お茶を一杯、恵んでくださいませんか」
「乞食が、お茶などもったいない。水で上等だ」
 端から何も与える気のない女は冷酷に言う。老人はなおも懇願する。
「それでは私は動けないので、水を一杯、くんでくださいませんか」
 女はますますいらだち、乱暴に言い捨てた。
「乞食の分際で、他人を使うとは何事だ。前の川に水はいくらでも流れているから自分で飲め」
 その時、目の前の老人が忽然と姿を変えた。
「何と無慈悲な人だろう。一飯を恵んでくれたら、この鉄鉢に金を一杯あげるはずだった。お茶を恵んでくれたら、銀を一杯あげるはずだった。水をくんでくれる親切があったら、錫を一杯あげるつもりであったが、何の親切心もない。それでは幸福は報うてはきませんよ」
 ブッダであった。
「ああ、あなたはお釈迦さまでしたか。差し上げます、差し上げます」
 女は言ったが、ブッダは、
「いやいや、利益を目当てにする施しには、毒がまじっているから頂かない」
とおっしゃって帰られた。

 妻が玄関先に立ち尽くしているのを見て、帰宅した夫は訳を尋ねた。一部始終を聞き終えると、男は強くののしった。

「おまえはバカなやつだ。なぜ一杯のご飯をやらなかったのだ。金が一杯もらえたのに」
「それが分かっていれば、十杯でもやりますよ」
「よし、それなら、オレが金と替えてもらおう」
 食事を盛った鉢を手に、男はブッダの後を追って走りだした。
 どれぐらい走っただろう。へとへとになったところで、道が左右に分かれている。ちょうど、道端にうずくまっている乞食を見つけて、尋ねた。
「乞食、ここをブッダが、お通りにならなかったか」
「ちっとも知りませんが……。ところで、私は空腹で動けません。何か食べ物を恵んでくださいませんか」
「オレは、おまえに恵みに来たのではない。金を得るために来たのだ」
 冷たく言い放った時、再びブッダが現れ、静かに仰せられた。
「妻も妻なら夫も夫、哀れむ心のない者は恵まれないのだ」
「あなたがお釈迦さまでしたか。あなたに差し上げるために来たのです」
 臆面もなく一飯を差し出した男に、
「いいえ、名誉や利益のための施しには、毒がまじっているから頂くまい」。
 厳然とおっしゃって、ブッダは立ち去られた。

●ブッダ物語 女を求めるのと、汝自身を求めるのと、いずれが大事か

 ブッダが、一樹の陰に休んでおられたとき、近くの林で三十人あまりの貴公子が、夫人同伴で酒宴を楽しんでいました。
 ところが、独身男が連れてきた娼婦のような女が、みんなが疲れて眠っている間に貴重品を盗んで逃げたのです。驚いた一行が懸命に探しまわっていると、ブッダの姿を見ました。あやしい女が通りかからなかったか尋ねると、こう反問されて、はっと我に返ったといいます。
「事情はよくわかったが、その女を求めるのと、汝自身を求めるのと、いずれが大事であろうか」
 一同、迷夢からさめた心地して、説法を聞き、弟子になった、と仏典に記されています。
「知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは おのれなりけり」といわれます。
 皆、自分のことは、他人に聞かなくても、自分が一番よく分かっていると思っています。しかし、自分ほど分からないものはありません。
「自分」ほど大事なものはないのに、自分ほど分からないものはありません。宇宙のことが分かっても、何十兆という細胞のことや遺伝子のことが分かっても、自分がわかりません。ここに、全人類の深い、果てしない迷い苦しみの原因があるのではないでしょうか。

ブッダ物語 毒蛇に気をつけよ

 ブッダがお弟子をつれて歩いていたとき、
「そこに、毒蛇がいるぞ。かみつかれぬように」
といわれると、お弟子は「ハイ、心得ております」と答えた。
 側で聞いていた男が、”毒蛇”の所在を確かめようと、道路のほうへ回って、恐る恐るのぞいてみた。なんと、近くの大木の根元に、まばゆい金銀財宝が顔を出しているではないか。
「これが毒蛇……? 昔、だれかが埋め隠したのが、大雨で洗い出されたに違いない。こんな宝を毒蛇と間違うとは、釈迦も、まぬけやろうだ」

“一生働いても手にできないほどの財宝、逃す手はない”。目の前に横たわる宝物に心奪われた男は、早速、掘り返す。持ち帰ると妻子は狂喜乱舞した。
 男の生活は、たちまち華美になる。豪奢な家や家財、贅を尽くした食事、振る舞い。近隣から不審の立たぬはずはなく、うわさは大風にあおられた火事のように広がり、ついに王の耳にも入った。法廷に呼び出され、厳しい詮議に音を上げた彼は、すべてを白状した。

「かかる大枚の財宝を横領するとは、許せぬ大罪。死刑に処するが、三日間の猶予を与える」
 激怒した王から言い渡された罪状を、帰宅した男は家族に告げた。
「ああ、お釈迦さまは偉い。間違いなく毒蛇だった。オレがかみ殺されるだけでなく、妻子にまで毒がまわり、大変なことになった。家族そろって平和に暮らせるのが何よりだ。財宝が、かえって身を責める道具になった」

“毒蛇”の深意が身にしみた男は、心から懺悔した。豪邸も財物もごちそうも、一切が喜べなくなり、ただ、家族と嘆き悲しむのみだった。
 翌日、突如、王からの呼び出しがかかった。
“死刑が早まったのか”。青ざめて出廷すると、昨日とは打って変わって穏やかな表情の王は、一言、

「おまえの罪は許す」。

 大恩赦である。キツネにつままれたような心地で男は、王の話を聞いた。
「おまえが帰る前に家臣を床下に忍ばせ、すべてを聞いた。釈尊のお言葉から、おまえの懺悔。考えてみると、おまえばかりが毒蛇にかまれるのではなかった。取り上げるオレも、酒色におぼれ、国を破滅させるところだった。財宝はお釈迦さまに使っていただこう」
 王の使いによって一部始終を聞かれたブッダは、微笑されながら、
「この世の宝は身を苦しめる道具になることが多い。早速、みんなが絶対の幸福になる仏法を伝えるために使おう」
と、お預かりになったという。

 大臣や総理まで務めた者が獄舎につながれ、毒にあてられ、悩んではいないか。毒蛇の被害者は、周囲に満ちている。

ブッダ物語 後生の一大事

 ある時、ブッダが托鉢中、大きな橋の上で、辺りをはばかりながら一人の娘が、しきりと袂へ石を入れているのを見つけられました。
 自殺の準備に違いない、と知られたブッダは、さっそく近寄り、優しくその事情を尋ねられました。
 相手がブッダと分かった娘は、心を開いてこう打ち明けたといます。
「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、今は捨てられてしまいました。世間の目は冷たく、お腹の子の将来などを考えますと、死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます。どうかこのまま死なせてくださいませ」
 娘は、よよと泣き崩れましたた。
 その時、ブッダは、哀れに思い、こう諭されています。
「愚かなそなたには、例えをもって教えよう。ある所に、毎日、重荷を積んだ車を朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。
 つくづくその牛は思った。なぜオレは毎日、こんなに苦しまねばならぬのか、自分を苦しめているものはいったい何なのかと考えた。そうだ! この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、牛は車を壊すことを決意した。
 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、木っ端微塵に壊してしまったのだ。
 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、頑丈な車でなければまた壊されると、やがて鋼鉄製の車を造ってきた。それは壊した車の何十倍、何百倍の重さであった。
 その車で重荷を同じように毎日引かされ、以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、深く後悔したが後の祭りであった。
 牛が、ちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと思ったのと同じように、そなたはこの肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。そなたには分からないだろうが、死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まなければならないのだ。その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなんだよ」

 このように、ブッダは、すべての人に、死ねば取り返しのつかない一大事のあることを教えられています。これを後生の一大事といわれます。
 この後生の一大事の解決が、仏教を聞く目的なのです。

ブッダ物語 巨木も一粒のタネから②

 ブッダは、静かにおっしゃいます。
「そなたは世の中で、これは珍しいというものを見たことがあるか」
“いきなり何だ”。男は戸惑いつつも、「珍しいもの」と問われ、村の大樹を思い出しました。
「あの多根樹ほど不思議なものはない。一つの木陰に五百両の馬車をつないでも、まだ余裕があるからな」
 続けてブッダは問われます。
「そんな大きな木だから、タネはひきうすぐらいはあるだろう。それとも飼い葉桶ぐらいかな」
「とんでもない。そんな大きなものではない。ケシ粒のほんの四分の一ぐらいしかない」
「そんな小さなタネから、そんな大きな木になるなんて、だれ一人信じないね」
 ブッダの言葉に、男は大声で反論しました。
「だれ一人信じなくとも、オレは信じている」
「どんな麦こがしの小さな善根でも、やがて強縁に助けられ、ついにはさとりを開くこともできるのだ」

 夫は自身の誤りを知らされ、直ちに己の非をわび、夫婦そろって仏弟子となったと伝えられています。

ブッダ物語 巨木も一粒のタネから①

 ブッダ在世中のことです。ある村に、多根樹という大きな木がありました。
 天を摩するような高さを誇り、幹太く、思い思いに広げた枝葉の下は、数百人が遊んでもまだ猶予があったといいます。自らの重さを支えるように、枝が地に伸びて根ざし、樹そのものが、ひとつの林のように見えました。
 ある日、尊い方がお弟子を連れて村を訪れ、托鉢をして歩かれました。
 たまたま、そのお姿を拝した貧しい女が深い尊敬の念を起こします。
「なんと尊いお方だろうか。ぜひ何か差し上げたい」
 この尊貴なお方こそ、ブッダであることを彼女は知ったのです。
 女はブッダに、自分たちの昼食のために用意した「麦こがし」を施すことにしました。大麦を煎って焦がし、うすでひいて粉にしたものです。
 鉢に麦こがしを差し上げた時、ブッダが弟子の阿難に向かって、こうおっしゃいます。
「この女は今の尊行によって、やがてさとりを開くであろう」
 すると傍らにいた彼女の夫が、おもむろにブッダに歩み寄り、腹を立てた様子で食ってかかった。
「そんな出任せ言って、麦こがしを出させるな。取るに足らぬ布施でどうしてそんな果報が得られるか」
(つづく)

ブッダ物語 智恵ある者に怒りなし

 ある邪教徒の男が、ブッダにさんざん悪口を言った。黙って聞いていたブッダは、静かに問いかける。
「そなたは祝日に、肉親や親類の人たちを招待し、歓待することがあるか」
「そ、そりゃ、あるさ」

 ブッダが続けて尋ねる。
「親族がその時、そなたの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」

 ブッダは続けて問いを繰り出される。
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受け取らなければ、その罵詈雑言は、だれのものになるのか」
 核心に触れたと思った男は、ムキになって反論した。
「いや、いくら受け取らなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとはいえない」
 突っぱねられた男は、訳が知りたくなる。立場は逆転した。男は、自らブッダに問うようになった。
「それなら、どういうのを受け取ったといい、どういうのを受け取らないというのか」
「ののしられた時、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受け取ったというのだ。しかし、その反対に、何とも思わないものは、与えたといっても受け取ったのではないのだ」
 さっきから感じていたことを言い表された気がして、男は重ねて尋ねた。
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
 ブッダは厳かに、偈で答えられた。

「智恵ある者に怒りなし。
 よし吹く風荒くとも、
 心の中に波たたず。
 怒りに怒りをもって報いるは、
 げに愚か者のしわざなり」

 百雷に打たれたような衝撃が心に走った。
「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」
 落涙平伏し、ブッダに帰順したという。

ブッダは心田を耕す労働者

 ある日、ブッダはお弟子たちを連れて、托鉢に出掛けられた。食料などの布施を鉢に受け、広く大衆と仏縁を結ぶためである。
 ある男が近づいて、からかうように言った。

「よく、あなたたちは来なさるね。どうです、そんなに大勢の働き盛りの若者たちを連れて、ブラブラ乞食したり、訳の分からぬ説法などして歩かないで、自分で田畑を耕して、米や野菜を生産したらどうです。私らは難しいことは言わないが、自分で働いて、自分でちゃんと食っていますよ」

“ものを生産してこそ労働ではないか”。丁寧ではあったが彼の言葉には、人々の施しによって生きる修行者たちへの軽蔑と、肉体を酷使して働くことへの自負とが、ありありと見えていた。

 男の言うことを静かに聞いておられたブッダは、従容として、こう答えられた。

「我もまた、田畑を耕し、種をまき、実りを刈り取っている労働者である」

 意外なお答えに、不審をあらわにして男は反問する。
「ではあなたは、どこに田畑を持ち、どこに牛を持ち、どこに種をまいていられるのか」

 ブッダは、毅然として喝破なされた。
「我は忍辱という牛と、精進という鋤をもって、一切の人々の、心の田畑を耕し、真実の幸福になる種をまいている」

 真実の仏法は、未来永劫、我々を絶対の幸福に生かし切ってくだされる。
 その真実の宝を施す以上の、素晴らしい労働があるはずがない。
 ブッダは、「我は心田を耕す労働者なり」の大自覚を持って、最高無比の労働に身命を捧げられたのである。


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