ブッダの説かれた「後生の一大事」①

 ブッダの説かれた教えを、今日「仏教」といわれます。仏教は、「後生の一大事」を知るところから始まり、「後生の一大事」の解決で終わります。
 後生の解決一つ、説かれた方がブッダだから、この大事が抜けてしまったら、ブッダの教えは何十年聞いても全く分かりません。

「後生の一大事」を、「生死の一大事」とも言われます。
 人生を空の旅に例えると、おぎゃっと生まれた時が、空港を飛び立った時。今、二十歳の人は二十年前に、五十歳の人は五十年前に飛び立った飛行機です。
 機内では映画や音楽を楽しみ、おいしい食事も運ばれてきます。空の旅はしかし、いつも平穏無事ではありません。乱気流や暴風雨、機体のトラブル、さまざまな不測の事態も待ち受けています。会社の倒産やリストラ、不慮の事故や病気、愛する人との離別や死別、嫁と姑の交戦など。それらと悪戦苦闘しながら、私たちは少しでも長く、快適な人生飛行を楽しみたいと願っています。

 政治、経済、科学、医学、芸術、スポーツ、その他、すべて人の営みは「いかに安全で、より長く楽しい飛行を続けるか」の努力といえるでしょう。
 科学の進歩一つとっても、百年前とは比べ物にならないほど便利な世の中になりました。
 地球環境や資源問題に対応するため、時代は「エコ」に。ガソリン車から電気自動車、太陽光発電はじめクリーンエネルギーへの転換も進められています。これら皆「どうすればより長く、快適に飛べるか」の追求であり、「どう生きるか」の問題です。
 しかし、忘れてはならないことがあります。
 飛行機の燃料は、無尽蔵ではありません。やがて尽きる時が来ます。その時、果たして安全な着陸地は確保されているでしょうか。(続く)

ブッダの教え(15)身体で造る罪③

 私たちの行いをブッダの教え(仏教)では心、口、身の三方向から見ますが、中でも心を最も重視します。

 私の姿を心と口と身の三方向から学んでいます。

 ブッダが、身で造る悪の3番目に教えられているのが「邪淫」です。

「邪淫」とは、よこしまな男女関係をいいます。

 芸能人の浮気や不倫が時々週刊誌などで報じられますが、ブッダは「あらゆる人は、つねに淫猥なことばかり考え、婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、卑猥な行為を思いのままにしている。我が妻を厭い憎んで、他の女をひそかにうかがって煩悶の絶えたことなく、愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、起つも坐るも、安らかでない」と説かれています。

 別れては恋しく、会えば敵となって傷つけ合う。満たされなければ渇き、満たせば二倍の度を増して渇く。燃え盛る愛欲の炎に身を焦がし、悶え苦しんでいるのは誰でしょうか。

●十悪を造り続けている私

 これまで学んできたように、心では貪欲・瞋恚・愚痴。口では綺語・両舌・悪口・妄語。身では殺生・偸盗・邪淫の十の悪を造り続けているのが人間だと、ブッダは説かれています。これを「十悪」といいます。中でも口や身をそうさせる心の姿をよくよく見つめなさいよ、と教えられるのが仏教です。

 十悪を造り続けている私たちを、「必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われているのが阿弥陀仏の本願なのです。

 ブッダは生涯、私たちの救われる道は「阿弥陀仏の本願」以外にないのだと、教えてゆかれました。

ブッダの教え(14)身体で造る罪②

 私たちの行いをブッダの教え(仏教)では心、口、身の三方向から見、中でも心を最も重視します。

 私の姿を心と口と身の三方向から学んでいます。

 ブッダが、身で造る悪の二番目に教えられているのが「偸盗」です。
 偸盗とは他人のものを盗み取ること。昔は近所の柿の木から落ちた柿一つ持ち帰っても親にこっぴどく叱られた、という家庭もありましたが、今日はどうでしょう。
 畑泥棒からスーパーや本屋さんの万引きに至るまで、あまりに多く、しかもそれを悪いとも思っていないようです。ある調査によると、万引き少年の三割は「ゲーム感覚でやった」と答えたそうですが、悪い行為の報いは、たとえ見つからなくても、因果の鉄則で必ずその人自身が受けねばならないのです。

 盗みは物に限りません。例えば何の連絡もせず約束の時間に十分遅れたら、その十分間、相手の時間を奪った(盗んだ)ことになるでしょう。これは時間の偸盗罪です。
 またお経には、「己にふさわしからぬものを多く用い、または食する」のはすでに盗みを働いたのだと説かれています。盗みの原語は「不与取」といい、一般には所有者の許可なしにかすめ取ることですが、仏教ではそのほかに「自分に相応しない」ものを持っている場合も含むのです。すなわち法律上、自分のものであっても、自分にふさわしくないものを愛用すれば盗みになるといわれるのです。

ブッダの教え(13)身体で造る罪①

 私たちの行いを、ブッダは心、口、身の三方向から見られ、中でも心を最も重視されています。心と口の悪について、説明してきました。身体では、「殺生」「偸盗」「邪淫」の罪を作っていると、教えられています。

1 殺生とは?

 仏教では、生き物を殺す罪を「殺生罪」といいます。私たちは動物を当たり前のように食べていますが、動物たちは決して人間に食べられるのが当然とは思っていないでしょう。どんな生き物でも、死にたくないのは同じです。人間とは何と残酷なものかと強くのろっているに違いありません。生きるためとはいいながら、私たちは日々、多くの生命の犠牲の上に自分の生命を保っているということになります。お釈迦さまは「すべての生命は平等であり、上下はない」と教えられています。人間の命だけを尊いと考えるのは人間の勝手な言い分で、殺生は恐ろしい罪なのです。

 一言で殺生といっても、殺し方によって、ブッダは三とおりに分けられています。「自殺」「他殺」「随喜同業」の三つです。
 最初の「自殺」とは、自分で生き物を殺すことをいいます。世間一般に使われる、自ら命を絶つことではありません。食べるために魚や鳥を殺したり、ハチや蚊に刺されて怒りのあまり殺したり、遊びのために釣りや猟で動物を殺すことを自殺というのです。「生きるためには仕方がない」「害を与えるから」と、私たちはどれだけの生き物を殺しているか分かりません。「仕方がない」と「悪でない」ということとは全く違います。

 次の「他殺」とは、他人に依頼して生き物を殺させる罪をいいます。自分は直接殺さなくても、自分が殺したのと同じ罪だと仏法では教えられます。魚屋さんは魚を、肉屋さんはウシやブタを殺しますが、魚や肉を買って食べる人がいなければ、それらの人たちは殺生しなかったでしょう。肉の好きな私たちが肉屋さんに頼んでウシやブタを殺してもらっているのですから、肉を買って食べる私たちは、他殺の罪を犯していることになります。
 三番目の「随喜同業」とは、他人が生き物を殺しているのを見て楽しむ罪。魚や肉に舌鼓を打つのも、随喜同業の姿です。
 このように、おびただしい殺生をせずしては生きられない深い業を私たちは持っていると、ブッダは説かれます。すべての人がどうにもならぬ極悪人だからこそ、阿弥陀仏は「我を信じよ、必ず救う」と誓われているのです。

ブッダの教え(12)口で造る罪②

ブッダは私たちの行いを心、口、身の三方面から教えられています。これを「身口意の三業」といいます。
ブッダは、口で「綺語」「両舌」「悪口」「妄語」の四悪を造っていると教えられます。
前回は、「綺語」「両舌」について解説しました。
今回は「悪口」「妄語」について、ブッダからお聞きしましょう。

3.心にも口にも真実がない

「妄語」は事実無根のウソをつくこと。”私はウソは申しません”と大衆の前で言い放った人がありますが、それこそ大ウソでしょう。
ブッダはお経に、
「心口各異 言念無実」
と説かれています。心で思うことと口で言うことはそれぞれ異なり、いずれにも真実がない。これが私たちの真実の姿なのだと教えられています。
また、「口は禍の門」ともいわれます。心無い一言や悪意に満ちた言葉は凶器となって人を傷つける。「舌刀」とも「語殺」ともいいます。

4.心無い言葉が人を殺す

丹波(京都)に百歳を超えた老婆がいた。彼女の家では、不幸にも今まで、子、孫が幾人も先だち、二十四度の葬式を出した。悲しみに暮れるいずれの葬儀でも、参列者が、
「ここのばあさんと代わっておれば……」
と、ある時は陰で、ある時は面前で言い放つ。
「その都度、ワシは殺されたんじゃ」
こう老婆は述懐したそうです。不用意な発言がどれだけ人を怒らせ、悲しませたことでしょう。思わず発した一言が、時に取り返しのつかない事態に発展することさえあります。
いずれも他人事とは思えぬこと。深く反省し、自戒せずにいられません。

ブッダの教え(11)口で造る罪①

ブッダは私たちの行いを心、口、身の三方面から教えられています。これを「身口意の三業」といいます。
前回までは心で造る悪を解説してきました。
今回は口の悪を、ブッダからお聞きしましょう。

1.口に四悪を好む

ブッダは、口で「綺語」「両舌」「悪口」「妄語」の四悪を造っていると教えられます。

「綺語」はきれいな言葉と書き、巧みな言葉で飾り立てて人をだまし、傷つけることです。
“だれに似たの?お気の毒”と思わせる個性的な顔の赤ちゃんも、親には”まあ、何てかわいいんでしょう”とお上手を言います。心にもない、そんなお世辞を言うのは”こう言っておけば、悪いことはなかろう”と計算してのことでしょう。
「こんな私」と謙遜しても常に自分を立て、美辞麗句を並べて褒めていても、他人のことは常にけなしている、ともいわれます。

2.他人の悪口が面白い

「両舌」は「二枚舌」ともいい、仲の良い人同士を仲違いさせるから「離間語」ともいわれます。Aさんには、”Bさんがあなたのことをこう言っていたよ”と伝え、Bさんには”Aさんたら、こんなことを”と、自分の考えを他人が言ったように吹聴するのです。
「悪口」は文字どおり、わるくち。まじめな話はすぐに飽きる私たちも、人の陰口なら一晩中でも話し続けます。
“先輩社員が仕事中、ずっと上司の悪口を言い続けていた”とある若者が嘆いていました。その先輩は悪いクセで、知らず知らずのうちに周囲に毒を撒き散らしているのです。

ブッダの教えを聞かせて頂くと、自分の言葉を、深く反省させられます。

ブッダの教え(10)自惚れ②

ブッダは、仏法(=ブッダの教え)を求める人が最後まで苦しむのは、「自惚れ心」の「慢」だと教えられています。その「慢」に、七通りあり、「七慢」と教えられています。前回の続きから、お話しします。

(4)我慢
「我慢」とは、世間では辛抱強く忍耐する意味で使われますが、仏教では、自分の間違いに気づきながらも、どこどこまでも自分の意見を押し通そうとする心をいいます。わが身かわいさ、己の非はそう簡単に認められないのが私たちではないでしょうか。

(5)増上慢
「増上慢」とは、さとりを開いてもいないのに、さとったと自惚れている心です。

(6)卑下慢
「卑下慢」とは、「私ほど悪い者はおりません」「こんな未熟者ですが、ご鞭撻よろしくお願い申し上げます」と、深々と頭を下げることによって、「どうじゃ、こんなに頭の低い者はおらんだろ」とニンマリする心です。

(7)邪慢
最後の「邪慢」とは、とんでもないことを自慢する心です。窃盗犯が機敏さを誇り、人殺しが残虐ぶりを自慢すると聞けばアキレますが、自分のことは皆、よいようにしか思えません。
「私は鼻は低いけれど、口が小さいからかわいいでしょう」「口は大きいけれど、肌年齢は十歳若いと言われるほどぷるぷるだし」「オレは学問はないけど働き者だと言われている」。しまいには、「何にもできん者だけど、素直なやつとみんなから言われているから」と、自分のことはすべてよいことにしてしまいます。
これら七つの自惚れ心から、私たちはもう離れることができないと、ブッダは説かれています。

ブッダの教え(9)自惚れ①

ブッダは、仏法(=ブッダの教え)を求める人が最後まで苦しむのは、「自惚れ心」の「慢」だと教えられています。その「慢」に、七通りあり、「七慢」と教えられています。
┌────┐
│七慢  │
├────┤
│○慢  │
│○過慢 │
│○慢過慢│
│○我慢 │
│○増上慢│
│○卑下慢│
│○邪慢 │
└────┘

(1)慢
最初の「慢」とは、自分より劣った相手を見て”情けないやつだ”とバカにする心です。
テストの点数で例えてみましょう。自分は八十点で相手は七十点とすると、「どうだ、オレのほうが上だろう」と相手を見下げる心です。”そう思うのは当然ではないか”と思われるかもしれませんが、これは相手を踏みつけている恐ろしい心なのです。

(2)過慢
次の「過慢」とは、同じ程度の相手なのに、自分のほうが優れていると威張る心をいいます。自分も八十点、相手も八十点だったのに、「本当はオレのほうが上なのだ」と自惚れる心です。

(3)慢過慢
その次の「慢過慢」とは、間違いなく自分よりも相手が優れているのに、素直にそうとは認められず、「オレのほうが上なのだ」と思う心をいいます。
例えば、相手が九十点で自分が八十点だった時でも、「あいつは高い金払って塾に通っているからだ。条件が同じならオレのほうが断然上だ」と思ったり、「あいつは勉強は少しはできるかもしれないが、スポーツはまるでダメじゃないか。その点オレは両方できるから、総合力でオレ」などと、都合のよい理由をいろいろ見つけて、相手の上に立とうとする心です。

他に、どんな自惚れ心があるとブッダは教えられているか、続けて聞かせて頂きましょう。

ブッダの教え(8)愚痴の醜さ

前回に続き、ブッダが「愚痴」をどのように教えられているか、聞いてみましょう。

「愚痴」とは、「まいたタネは必ず生える。善いも悪いも、現れる結果の一切は、自分のまいたタネばかり」という因果の道理が分からず、他人の幸せをねたんだり、そねんだりする心です。
反対に、他人の不幸を見ると喜ぶのが「愚痴」です。

毒舌家A・ビアスは、「幸福とは、他人の不幸を見てよろこぶ快感」と『悪魔の辞典』に書いています。電車に乗り込もうと一生懸命走ってきた人が、目の前でドアが閉まってぶつかったら、ククッとほくそえむ心はないでしょうか。着飾った女性が車の泥はねで泣きだしそうなのを楽しんでいる。火事場に向かう途中で鎮火したと聞くとガッカリする。旅先の火事は大きいほど面白い。不謹慎であってはならないと思う下から、対岸の火事を楽しむ心がムクムクと出てきます。

ねたみ、そねみのいやらしさは、見ただけでゾッとしますから、ヘビやサソリのような心だ、と親鸞聖人はおっしゃっています。
出世したとか結婚したとか新築など、他人の幸せはみんなしゃくのタネ。失敗したとか離婚とか、他人の不幸を聞くと心の中はニヤリとする。思っていることを洗いざらい、さらけ出したらどうでしょう。悪魔と叫んでみんな逃げ出すのではないでしょうか。
本当の幸せになるには、このような自己の姿をよくよく知ることが大事であると、ブッダは教えられているのです。

ブッダの教え(7)愚痴の心

三毒の煩悩の三つめ、愚痴の心について、ブッダの教えを聞いてみましょう

世界十数カ国を旅した人が、つくづく語ったことがあります。「どこの国に行っても、人間は変わらないな」と。どんなに国や時代が変わっても、変わらないもの、それが煩悩具足の人間の姿でしょう。

二千六百年前、仏教を説かれたブッダは、人間とは百八の煩悩の塊であると教えられました。中でも、特に私たちを煩わせ悩ませるものが、貪欲・瞋恚・愚痴の三つです。
限りない欲望(貪欲)が妨げられた時に出るのが瞋恚、怒りの心ですが、怒ってみてもとてもかなわぬ相手と知ると、ねたみそねみ、恨みの愚痴の心がわき上がってきます。

世間では、言ってもどうにもならぬことを言って嘆くことを「愚痴をこぼす」とか「愚痴る」と使っていますが、元は仏教の言葉です。仏教で愚痴とはどんな意味でしょう。
「愚」は愚か。「痴」は知恵が「置(病だれ)」の中に入っていますから、頭が入院しているということで、これも馬鹿ということです。

愚かで馬鹿な心とは、「まいたタネは必ず生える。善いも悪いも、現れる結果の一切は、自分のまいたタネばかり」という因果の道理が分からず、他人の幸せをねたんだり、そねんだりする心です。大宇宙の真理の分からない、醜い心ですから、黒鬼に例えられます。


Copyright © ブッダとは? All Rights Reserved.