ブッダの人生観②

 ブッダの教えられた、人生の目的を知るために、人生を飛行機に例えて考えてみましょう。

 前回、私たちが「生きる」ということは、飛行機で言えば「飛ぶ」ことだと、お話ししました。

 政治、経済、科学、医学、芸術、スポーツ、その他、すべて人の営みは、生きるためにあります。どうしたら、楽しく、快適に生きられるためにあるものです。飛行機でいえば、「いかに安全で、より長く楽しい飛行を続けるか」の努力といえるでしょう。

 もちろん、それは大事なことですが、もっと大事なことがあります。

 飛行機の燃料は、無尽蔵ではありません。やがて尽きる時が来ます。その時、果たして安全な着陸地は確保されているでしょうか。
「臓器移植に成功した」のは、機体のトラブルを修復し、少し長く飛べるようになったということ。「落盤事故から助かった」といっても、死ななくなったのではありません。一時、死ぬのが延びただけ。降りる所のない飛行機には、やがて墜落の悲劇あるのみです。

 私という飛行機は、どこに向かっているのか。「どう飛ぶか(生き方)」も大切ですが、もっと大切なのは、「着陸地(目的)」をハッキリさせることではないでしょうか。

 ブッダが『大無量寿経』というお経に、
「大命将に終らんとして悔懼交至る」
〝臨終に、後悔と恐れが、代わる代わるおこってくる〟と説かれたのは、海面に激突する心境に違いありません。

 飛行機に墜落以上の大事はないように、人生に死ぬ以上の大事はありません。生死の一大事とも、後生の一大事ともいわれるゆえんです。終幕の人生に、真っ暗な後生に驚いても後の祭り。生死の大問題の解決こそ、人生究極の目的だと、ブッダは教えておられます。

 私たちには、燃料がなくなるまでに、果たさねばならないことがあるのです。

ブッダの人生観①

 ブッダは、私たちの生きる目的を教えられた方です。

 それは、どんなことかを知るために、人生を空の旅に例えて考えてみましょう。

 私たちが、おぎゃっと生まれた時が、空港を飛び立った時です。
 今、三十歳の人は三十年前に、六十歳の人は六十年前に飛び立った飛行機なのです。

 機内では映画や音楽を楽しみ、おいしい食事も運ばれてきます。空の旅はしかし、いつも平穏無事ではありません。乱気流や暴風雨、機体のトラブル、さまざまな不測の事態も待ち受けています。会社の倒産やリストラ、不慮の事故や病気、愛する人との離別や死別、嫁と姑の交戦など。それらと悪戦苦闘しながら、私たちは少しでも長く、快適な人生飛行を楽しみたいと願っています。

 政治、経済、科学、医学、芸術、スポーツ、その他、すべて人の営みは「いかに安全で、より長く楽しい飛行を続けるか」の努力といえるでしょう。

 科学の進歩一つとっても、百年前とは比べ物にならないほど便利な世の中になりました。
 地球環境や資源問題に対応するため、時代は「エコ」に。ガソリン車から電気自動車、太陽光発電はじめクリーンエネルギーへの転換も進められています。これら皆「どうすればより長く、快適に飛べるか」の追求であり、「どう生きるか」の問題です。
 しかし、忘れてはならないことがあります。(つづく)

ブッダの幸福観⑥この坂を越えたら幸せ?(後編)

 前回は、私たちが同じ所を回り続け、しかも苦しんでいる様を、ブッダは「流転輪廻」と説かれている、ということを学びました。
 そんな私たちに、唯一、完成のある道を教えられた方がブッダです。

「求める過程が素晴らしい」という人もあります。でも「求める」のは「求まった」というゴールがあるのが前提。肝心のゴールが分からず、ただ求めることが、素晴らしいと言えるでしょうか。もっとも、どの道もゴールなど見当たらないから、そうでも思わねばやっていけない気持ちはよく分かります。
 そんな中、「完成のある道が一つだけある」と、生きる目的を明示された方がブッダであり、ブッダの教えをそのまま伝えられた方が親鸞聖人です。
 幸いにブッダの教えを聞くご縁に恵まれ、完成のある道を知らされた人は、人生が光に向かって百八十度転換するでしょう。

 前回からの内容を、まとめます。

○「この坂を越えたなら
  しあわせが待っている」
  とだれもが信じて生きています。
  でも実際はどこまでも
  坂が続いているのではないでしょうか。

○安心満足というゴールのない、
 終わりなき人生の苦しみを仏教で
 「流転輪廻」といいます。

○ブッダは、「これ一つ果たすための人生だった」
 と喜べる、完成のある道を説かれています。

ブッダの幸福観⑤この坂を越えたら幸せ?(前編)

「この大学に合格すれば」「この仕事がうまくいけば」「この人と結婚すれば」「この病気が治れば」楽になれる、幸福になれる。だれもが信じて生きています。
「この坂を越えたなら しあわせが待っている」と歌の詞にもあるように、人それぞれ、何を「この坂」と思うかが違うだけで、「坂を越えたら幸福がある」という信念は、日本人も、アメリカ人も、中国人も変わらないでしょう。古今東西すべての人に共通する。それが「この坂を越えたなら」の信心、といえそうです。
 では、坂を越えたらどうなるのでしょう。

 こんな歌があります。「越えなばと思いし峰にきてみれば、なお行く先は山路なりけり」。
〝この坂さえ越えたなら、幸せがつかめるのだ〟と、必死に目の前の坂を上ってみると、そこにはさらなる急坂がそびえていた、と。
 猛勉強の末、難関大学へ進んだのに就職先が決まらない。ようやく就職すれば、イヤな上司や顧客に神経を擦り減らす毎日。結婚すれば、嫁と姑のバトル、さまざまな生活苦が待っている。せめて家庭ではホッとしたいのに現実は過酷だ。やっと自由になったと思ったころには、体の自由が利かなくなり、他人の世話にならねばならぬとは。

 幾つもの坂を乗り越えて、私たちは同じことを繰り返しているのではないでしょうか。
 このような私たちの姿を、ブッダは「流転輪廻」と説かれています。図でかけば〝円周〟です。この道には、ゴールも完成もありません。
 限りある命で、限りない道を歩き続ければ、結末はどうなるか。〝悲劇あるのみ〟と気づいて、自ら人生の幕を引く人もあります。
 しかしほとんどの人は「政治が変われば」「経済がよくなれば」「この坂さえ越えたなら」と、目の前の苦しみを乗り越えるのに必死で、流転輪廻しているという自覚さえ、ないのが現状かもしれません。(つづく)

ブッダの幸福観④生きる目的と生きがいの違い

 ブッダの説かれた「生きる目的」と、「趣味や生きがい」との違いを、学びましょう。

 もし「何のために生きているか」と尋ねられたら「趣味や生きがい」を挙げる人が多いと思います。好きなことに没頭している時は、嫌な日常を忘れて幸せを感じるものです。

 世の中、いろいろな趣味があります。鉄道ファンといっても、列車に乗ることが好きな人は「乗り鉄」、列車の撮影が好きな人は「撮り鉄」と呼ばれるとか。コレクションが趣味という人もある。景品で集めたパンダのマスコットを百個も持っている知り合いがいて、一つ分けてくれました。ワニやヘビを飼っている人、大人になってダンスや陶芸にハマったという方もあるかもしれません。

 こんなマンガがありました。
「女性はなぜ、趣味や習い事が好きなんだろうね」と尋ねる夫に妻が言う。「人生を少しでも”まし”なものにしたいからじゃない」。二人の間に微妙な空気が漂う──。
 何が欲しいわけではないけれど、何かが足りない。どこまでも続く日常のむなしさを、うまくとらえています。

 趣味や習い事が、人生を豊かなものにするのは確かでしょう。しかし道楽や趣味は、多くの場合、もしかしたら大半の場合、根本的な幸福の源ではなくて、現実からの逃避になっているのではないでしょうか。

 定年を迎え「第二の人生、趣味に生きよう」と呼びかける声があります。一見、理想的な生き方に思えますが、「何十年も一つや二つの趣味に没頭できる人が、そんなにあるだろうか」と違和感を訴える人もいます。

「人間はすぐ退屈する動物」だと書いてある本もありました。
「人間はすぐ退屈する動物であり、自分のやっていることの『意味』を考えてしまう動物である。(中略)そば打ちをやろうが、山歩きに精を出そうが、短歌サークルに属そうが、土をいじろうが、そこで得られる満足感は、ある年齢以上になればたかが知れている」(小浜逸郎著『死にたくないが、生きたくもない。』

 やがて”何にもなれずに終わるのかな”との思いが、頭をもたげてくるようです。

 趣味や生きがいは、楽しい一時が終われば、つまらない現実に逆戻りです。飲んだ酒に酔っている間だけ、借金を忘れて気持ちよくなっているのと同じでしょう。そのほろ酔い気分も次第に味わえなくなってくる。だれもが気づいているのではないでしょうか。それでも「酒なくて何の人生か。酒飲まぬバカ」と言う人もある。一方で、「こんな面白い人生になんで酒やタバコが必要なんだ」と笑う人もいる。それは真の生きる目的を知らされた人です。
 ブッダの説かれた仏法を聞き、生きる目的を達成すれば、「何と生きるとは素晴らしいことか!」と、人生を丸ごと肯定できるのです。

ブッダの幸福観③楽しみの実態

 人は皆、幸せを求めて生きています。これに異論を唱える人はないでしょう。
 しかも、いつか崩れる幸せではなく、永遠に崩れない絶対の幸福こそ、すべての人が求める人生の目的だと、ブッダは教えられます。

 こう聞くと、「そんな難しいこと考えなくても、今、楽しいことをやればいい。それがその時その時の、生きる目的。そうやって楽しい時間を積み重ねていけば、人生の幸福も最大になるはずだ」と言う人があります。
 もしそのとおりなら、大変結構な話です。果たして私たちの幸福感は、都合よく足し算できるのでしょうか。

 私たちが「楽しい」と感じるのは、どんな時か、ちょっと想像してみましょう。
 例えば、ワールドカップ・サッカーを観戦する。世界遺産を巡る旅に出る。落語や音楽を聞く。おいしい物を食べる。真夏の夜飲むキンキンに冷えたビールがたまらない。
 こういった「欲望を満たす気持ちよさ」は、確かに強烈な幸福感ですが、その快感は何日続くでしょう。すぐ消え去る宿命は、免れません。

 心の仕組みを詳細に説かれた仏教では、これらを一括して、「前五識」の楽しみと教えられます。

 仏教で、私たちの心を八つに分けて教えたものを「八識」といい、そのうち初めの五つ「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識」を前五識といわれます。識とは心のことです。

 眼識とは色や形を見分ける心。スポーツ観戦や世界遺産巡りは、目の楽しみでしょう。しかし「虹を十五分も眺める人はない」の格言どおり、美しい風景も見続ければ飽きます。

 耳識は音を聞き分ける心。落語や音楽は耳の楽しみですが、同じものを聞き続けたらやはり飽きがきます。

 鼻識は匂いをかぎ分ける心。コーヒー工場の隣に住む人がこう言っていました。
「いい香りも毎日だと何とも思わなくなる」

 舌識とは甘、辛、酸など味を分ける心です。どんなおいしい料理も、一カ月食べ続けたら見たくなくなるに違いありません。

 身識とは、寒・暖、痛・快などを感ずる心。かゆい所をかく気持ちよさは格別ですが、かゆみが消えてもなお、かき続けたら、今度は痛みに変わるでしょう。

 考えてみれば、私たちの味わう喜びの大半は、この前五識の楽しみではないでしょうか。肉体とともに滅ぶこれらの快楽を幾ら求めても、足し算どころか、すぐ色あせ苦痛に変わる。ところがブッダは、決して色あせることのない幸せが教えられているのです。

ブッダの幸福観②

 ブッダは、幸福といわれるものを二つに分けておられます。相対の幸福と、絶対の幸福です。

 相対の幸福とは、一時的な喜びや満足をいいます。例えば好きな人と結婚できた喜びとか、マイホームを手にした満足とか、私たちが一般に求めている生きがいや喜びですね。
 これらは幸せには違いありませんが、悲しいかな続きません。やがては色あせ崩壊し、悲しみや苦しみに転化します。たとえしばらく続いても、すべて失う時が来る。死ぬ時です。豊臣秀吉は臨終に「露と落ち露と消えにし我が身かな」。太閤の栄華でさえ露のように儚いものだった、と嘆いています。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず」(御文章)
〝病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日ごろ、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬ時には何一つ頼りにはならない。喜びにならない〟。蓮如上人の仰せです。

 人生は死の滝つぼへ向かう船上の宴でしょうか。やがて壊れる幸福しか知らず、総崩れの終末に向かって不安な旅路を急ぐ私たちに〝絶対壊れぬ、絶対の幸福があるぞ〟と教えられているのが、ブッダです。

 絶対の幸福とは何でしょうか。
 この場合、絶対というのは無上、最高不二という意味と、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びということです。
 最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地をいいます。死に直面しても変わらぬものなら、その他の障害によって動乱することは毛頭ありませんから、安心し切って明るい生活ができるようになり、心行くまで人生を味わうことができるようになるのですね。
 そんな幸福がどこに説かれているのか、といえば、本師本仏(大宇宙のあらゆる仏の先生)の阿弥陀如来が「必ず絶対の幸福に救う」と誓われているのです。
 この阿弥陀如来のお約束を、阿弥陀仏の本願といいます。この阿弥陀仏の本願一つ、生涯教えていかれた方が、親鸞聖人です。

ブッダの幸福観①

「生きる目的は幸福だ」とパスカル(フランスの哲学者)も言うように、私たちは幸せを求めて生きています。これに異論を唱える人はないでしょう。

汗水流して働くのも、就職活動や結婚相手探し、リハビリに励む人も、果ては自殺する人ですら幸せを望むからにほかなりません。
政治・経済、科学・医学、芸術・スポーツ、その他あらゆる人間の営みは、この目的達成のために生まれたものといえます。
ところが、その幸福に二つあると、ブッダは教えられます。「相対の幸福」と「絶対の幸福」です。

「相対の幸福」とは?

相対の幸福とは、健康だとか、お金がたくさんあるとか、素晴らしい相手と結婚できたとか、高い地位や名誉を得られたとか、いわゆる世間一般に「幸福」と考えられているものをいいます。
確かに、健康で、お金があって、好きな人と暮らせたら、さぞ愉快で面白いでしょう。また、よりよく生きるには大切であり、努力追求すべきものであることはもちろんです。
しかし、これらの幸せには常に「不安」がつきまとって離れません。明日はどうなるか分からないという不安が去りません。それは「続かないから」です。

続かないから不安

昨日まで病気知らずの人が、突然倒れることは珍しくありません。そうなれば昨日までの幸福は根底から覆されます。毎年、ゴールデンウイークには、百名余りが事故で亡くなるといいます。一寸先は闇で、元気なのも少しも当てにはなりません。

他人もうらやむ結婚をしても、お互い生身の体、いつか別れが訪れます。その時になって、今までの幸福を喜ぶ心は出てきません。
これらの幸福は、今はあっても、いつなくなるか分からない「無常」のものですから、絶えず不安がつきまといます。だから本当の幸せとはいえないのですね。

火宅無常の世界

有名な『歎異抄』に、「火宅無常の世界」というお言葉があります。火宅とは火のついた家。隣家が火事になって軒先に燃え移ってきたら、のんびりご飯を食べていられる人はないでしょう。不安だからです。
いつ何が起きるか分からない無常の世界に住んでいるから、何を得ても、人生は火宅のように不安なのだと親鸞聖人は仰います。
私たちは毎日、幸福を得るために並々ならぬ苦労をしていますが、その苦労が真に生かされる道はあるのでしょうか。
それを教えられた方がブッダであり、その解答が「絶対の幸福」です。

ブッダの生命観

●私たちの生命は、肉体ではない

 ブッダが誕生された時、東西南北に七歩ずつ歩いて言われたという
「天上天下、唯我独尊」
について、前回から学んでいます。

 万人共通の生きる目的があることを仰ったお言葉ですが、四方に七歩ずつ、とは何を意味するのでしょうか。私たちの生命の実相を知れば、それは分かります。

 生命と聞くと私たちは、この世だけの肉体のことと思いがちですが、ブッダは、はるかな過去から、永遠の未来に向かって流れている生命を説かれています。それを「昿劫」とか「多生」「億劫」「久遠劫」とさまざまな言葉で表されます。

●遠い過去から永遠の未来へ

「昿劫」の劫は四億三千二百万年、大変な長期間が昿劫です。「多生」は遠い過去から幾度も生死を繰り返してきたこと。その間、真の救い(出離の強縁)を求めたが獲られず、苦しんできた、と親鸞聖人は
「昿劫多生の間にも 出離の強縁知らざりき」
と和讃に言われています。

 次の「億劫」も長い時間。『教行信証』に、
「真実の浄信は億劫にも獲がたし」
とあります。

 有名な『歎異抄』第九章には
「久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里」
と永きにわたる魂の遍歴を述べられています。

●人生は一瞬

 一億年を一メートルとして地球誕生からの四十六億年を表すと、四十六メートルの線となります。そこにあなたの一生を記すとしたら、どれほどでしょう。十万年でも一ミリですから、百年はごく小さな点ですね。
 また、四十六億年を一年に換算すると、人類の誕生は大晦日になってから。今日のように文明が発達し始めたのは、その日の午後十一時五十分を過ぎてからのことだそうです。
 人類の〝永い〟歴史といっても、これほどですから、悠々たる大宇宙と比べると、人間の一生はいかに短いことでしょう。

●六つの世界で迷ってきた

 そんな無限の時間、私たちは生死を繰り返してきましたが、仏教では、その経巡ってきた迷いの世界を「六道」と教えられます。
 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界の六つをいい、生前の行いで次に生まれる世界が決まります。
 この迷界から出離するために、仏法を聞くのです。人間に生まれないと仏法は聞けませんから、「有り難い人身」「唯我独尊」と喜ばずにおれません。
 六道から一歩出て、二度と迷わぬ身になるために生まれてきたことを、四方に七歩ずつ、と示されているのです。

平安時代の源信僧都は、
「まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり」
(横川法語)
と、人間に生まれたことは大変喜ばねばならないことだと仰っています。

「人生の目的」を説かれたブッダ

 同じことの毎日に、どんな意味があるのでしょう。小説『1Q84』で話題の作家・村上春樹氏は、あるインタビューで、私たちには生きる軸がない、と述べています。なぜ生きるか分からぬ生を「軸がない」と表現したのかもしれません。考えても袋小路だから「あまり悩まないで」という人もあります。

 しかし、目的分からず生きるのは、ゴールなき円周を走り続けるようなもの。見渡す限り空と水しか見えない海の中を泳いでいるのと同じです。考えずに先送りして、解決する問題ではないでしょう。

 二千六百年前、この問いに初めて答えられたのが、ブッダでした。

 ブッダの説かれた教えを、今日「仏教」といわれます。
「仏教」と聞くと、葬式や法事を思い浮かべ、「死ねば用があるもの」「若いから聞く必要がない」とそっぽを向く人も多いでしょう。
 ところが仏教には、私たちが最も知りたい「なぜ生きる」が示されているのです。

 ブッダが誕生なされた時、東西南北に七歩ずつ歩かれ、天と地を指さして、
「天上天下 唯我独尊
 三界皆苦 吾当安此」
とおっしゃった有名なエピソードがあります。

「天上天下 唯我独尊」とは、この世でオレ一人が尊い、と、ブッダうぬぼれておっしゃった言葉ではありません。〝実るほど頭の下がる稲穂かな〟。お釈迦さまほどの方が、そんなことを言われるはずがありません。この「我」は「我々人間」のことです。

 ですから「天上天下 唯我独尊」とは、天上にも地上にも、ただ人間にしかできない唯一の尊いことがある。私たちは一人一人、たった一つの聖なる使命を果たすべくこの世へ生まれてきたのだ、という宣言です。
 人間のみが果たせる尊い使命とは、言葉を換えれば「人生の目的」です。

「三界皆苦」とは「人生(三界)は皆苦なり」ということです。災害や事故、境界争い、嫌な人間関係など、この世は苦しみの充満した世界に違いありません。
「吾当安此」とは、「吾(ブッダ)当に此に安んずべし」と読み、私はその苦しみの世界にありながら、安らかで楽しい。すべての人は、この無碍の世界に出るために生まれてきたのだ、と言われたお言葉です。


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