ブッダは私たちの行いを心、口、身の三方面から教えられています。これを「身口意の三業」といいます。
ブッダは、口で「綺語」「両舌」「悪口」「妄語」の四悪を造っていると教えられます。
前回は、「綺語」「両舌」について解説しました。
今回は「悪口」「妄語」について、ブッダからお聞きしましょう。
3.心にも口にも真実がない
「妄語」は事実無根のウソをつくこと。”私はウソは申しません”と大衆の前で言い放った人がありますが、それこそ大ウソでしょう。
ブッダはお経に、
「心口各異 言念無実」
と説かれています。心で思うことと口で言うことはそれぞれ異なり、いずれにも真実がない。これが私たちの真実の姿なのだと教えられています。
また、「口は禍の門」ともいわれます。心無い一言や悪意に満ちた言葉は凶器となって人を傷つける。「舌刀」とも「語殺」ともいいます。
4.心無い言葉が人を殺す
丹波(京都)に百歳を超えた老婆がいた。彼女の家では、不幸にも今まで、子、孫が幾人も先だち、二十四度の葬式を出した。悲しみに暮れるいずれの葬儀でも、参列者が、
「ここのばあさんと代わっておれば……」
と、ある時は陰で、ある時は面前で言い放つ。
「その都度、ワシは殺されたんじゃ」
こう老婆は述懐したそうです。不用意な発言がどれだけ人を怒らせ、悲しませたことでしょう。思わず発した一言が、時に取り返しのつかない事態に発展することさえあります。
いずれも他人事とは思えぬこと。深く反省し、自戒せずにいられません。
Filed under: 未分類 on 1月 1st, 2012 | コメントは受け付けていません。
ブッダは私たちの行いを心、口、身の三方面から教えられています。これを「身口意の三業」といいます。
前回までは心で造る悪を解説してきました。
今回は口の悪を、ブッダからお聞きしましょう。
1.口に四悪を好む
ブッダは、口で「綺語」「両舌」「悪口」「妄語」の四悪を造っていると教えられます。
「綺語」はきれいな言葉と書き、巧みな言葉で飾り立てて人をだまし、傷つけることです。
“だれに似たの?お気の毒”と思わせる個性的な顔の赤ちゃんも、親には”まあ、何てかわいいんでしょう”とお上手を言います。心にもない、そんなお世辞を言うのは”こう言っておけば、悪いことはなかろう”と計算してのことでしょう。
「こんな私」と謙遜しても常に自分を立て、美辞麗句を並べて褒めていても、他人のことは常にけなしている、ともいわれます。
2.他人の悪口が面白い
「両舌」は「二枚舌」ともいい、仲の良い人同士を仲違いさせるから「離間語」ともいわれます。Aさんには、”Bさんがあなたのことをこう言っていたよ”と伝え、Bさんには”Aさんたら、こんなことを”と、自分の考えを他人が言ったように吹聴するのです。
「悪口」は文字どおり、わるくち。まじめな話はすぐに飽きる私たちも、人の陰口なら一晩中でも話し続けます。
“先輩社員が仕事中、ずっと上司の悪口を言い続けていた”とある若者が嘆いていました。その先輩は悪いクセで、知らず知らずのうちに周囲に毒を撒き散らしているのです。
ブッダの教えを聞かせて頂くと、自分の言葉を、深く反省させられます。
Filed under: 未分類 on 12月 26th, 2011 | コメントは受け付けていません。
ブッダは、仏法(=ブッダの教え)を求める人が最後まで苦しむのは、「自惚れ心」の「慢」だと教えられています。その「慢」に、七通りあり、「七慢」と教えられています。前回の続きから、お話しします。
(4)我慢
「我慢」とは、世間では辛抱強く忍耐する意味で使われますが、仏教では、自分の間違いに気づきながらも、どこどこまでも自分の意見を押し通そうとする心をいいます。わが身かわいさ、己の非はそう簡単に認められないのが私たちではないでしょうか。
(5)増上慢
「増上慢」とは、さとりを開いてもいないのに、さとったと自惚れている心です。
(6)卑下慢
「卑下慢」とは、「私ほど悪い者はおりません」「こんな未熟者ですが、ご鞭撻よろしくお願い申し上げます」と、深々と頭を下げることによって、「どうじゃ、こんなに頭の低い者はおらんだろ」とニンマリする心です。
(7)邪慢
最後の「邪慢」とは、とんでもないことを自慢する心です。窃盗犯が機敏さを誇り、人殺しが残虐ぶりを自慢すると聞けばアキレますが、自分のことは皆、よいようにしか思えません。
「私は鼻は低いけれど、口が小さいからかわいいでしょう」「口は大きいけれど、肌年齢は十歳若いと言われるほどぷるぷるだし」「オレは学問はないけど働き者だと言われている」。しまいには、「何にもできん者だけど、素直なやつとみんなから言われているから」と、自分のことはすべてよいことにしてしまいます。
これら七つの自惚れ心から、私たちはもう離れることができないと、ブッダは説かれています。
Filed under: 未分類 on 11月 12th, 2011 | コメントは受け付けていません。
ブッダは、仏法(=ブッダの教え)を求める人が最後まで苦しむのは、「自惚れ心」の「慢」だと教えられています。その「慢」に、七通りあり、「七慢」と教えられています。
┌────┐
│七慢 │
├────┤
│○慢 │
│○過慢 │
│○慢過慢│
│○我慢 │
│○増上慢│
│○卑下慢│
│○邪慢 │
└────┘
(1)慢
最初の「慢」とは、自分より劣った相手を見て”情けないやつだ”とバカにする心です。
テストの点数で例えてみましょう。自分は八十点で相手は七十点とすると、「どうだ、オレのほうが上だろう」と相手を見下げる心です。”そう思うのは当然ではないか”と思われるかもしれませんが、これは相手を踏みつけている恐ろしい心なのです。
(2)過慢
次の「過慢」とは、同じ程度の相手なのに、自分のほうが優れていると威張る心をいいます。自分も八十点、相手も八十点だったのに、「本当はオレのほうが上なのだ」と自惚れる心です。
(3)慢過慢
その次の「慢過慢」とは、間違いなく自分よりも相手が優れているのに、素直にそうとは認められず、「オレのほうが上なのだ」と思う心をいいます。
例えば、相手が九十点で自分が八十点だった時でも、「あいつは高い金払って塾に通っているからだ。条件が同じならオレのほうが断然上だ」と思ったり、「あいつは勉強は少しはできるかもしれないが、スポーツはまるでダメじゃないか。その点オレは両方できるから、総合力でオレ」などと、都合のよい理由をいろいろ見つけて、相手の上に立とうとする心です。
他に、どんな自惚れ心があるとブッダは教えられているか、続けて聞かせて頂きましょう。
Filed under: 未分類 on 10月 15th, 2011 | コメントは受け付けていません。
前回に続き、ブッダが「愚痴」をどのように教えられているか、聞いてみましょう。
「愚痴」とは、「まいたタネは必ず生える。善いも悪いも、現れる結果の一切は、自分のまいたタネばかり」という因果の道理が分からず、他人の幸せをねたんだり、そねんだりする心です。
反対に、他人の不幸を見ると喜ぶのが「愚痴」です。
毒舌家A・ビアスは、「幸福とは、他人の不幸を見てよろこぶ快感」と『悪魔の辞典』に書いています。電車に乗り込もうと一生懸命走ってきた人が、目の前でドアが閉まってぶつかったら、ククッとほくそえむ心はないでしょうか。着飾った女性が車の泥はねで泣きだしそうなのを楽しんでいる。火事場に向かう途中で鎮火したと聞くとガッカリする。旅先の火事は大きいほど面白い。不謹慎であってはならないと思う下から、対岸の火事を楽しむ心がムクムクと出てきます。
ねたみ、そねみのいやらしさは、見ただけでゾッとしますから、ヘビやサソリのような心だ、と親鸞聖人はおっしゃっています。
出世したとか結婚したとか新築など、他人の幸せはみんなしゃくのタネ。失敗したとか離婚とか、他人の不幸を聞くと心の中はニヤリとする。思っていることを洗いざらい、さらけ出したらどうでしょう。悪魔と叫んでみんな逃げ出すのではないでしょうか。
本当の幸せになるには、このような自己の姿をよくよく知ることが大事であると、ブッダは教えられているのです。
Filed under: 未分類 on 9月 10th, 2011 | コメントは受け付けていません。
三毒の煩悩の三つめ、愚痴の心について、ブッダの教えを聞いてみましょう
世界十数カ国を旅した人が、つくづく語ったことがあります。「どこの国に行っても、人間は変わらないな」と。どんなに国や時代が変わっても、変わらないもの、それが煩悩具足の人間の姿でしょう。
二千六百年前、仏教を説かれたブッダは、人間とは百八の煩悩の塊であると教えられました。中でも、特に私たちを煩わせ悩ませるものが、貪欲・瞋恚・愚痴の三つです。
限りない欲望(貪欲)が妨げられた時に出るのが瞋恚、怒りの心ですが、怒ってみてもとてもかなわぬ相手と知ると、ねたみそねみ、恨みの愚痴の心がわき上がってきます。
世間では、言ってもどうにもならぬことを言って嘆くことを「愚痴をこぼす」とか「愚痴る」と使っていますが、元は仏教の言葉です。仏教で愚痴とはどんな意味でしょう。
「愚」は愚か。「痴」は知恵が「置(病だれ)」の中に入っていますから、頭が入院しているということで、これも馬鹿ということです。
愚かで馬鹿な心とは、「まいたタネは必ず生える。善いも悪いも、現れる結果の一切は、自分のまいたタネばかり」という因果の道理が分からず、他人の幸せをねたんだり、そねんだりする心です。大宇宙の真理の分からない、醜い心ですから、黒鬼に例えられます。
Filed under: 未分類 on 8月 15th, 2011 | コメントは受け付けていません。
ブッダが説かれた通り、「怒り」の恐ろしさを示す事例に、事欠きません。
かつて、ある動物園のカバが、妊娠した時のことです。関係者はカバの子が産まれることを待望していた。ところが、産まれてきた子は死んでいたので、一同、大いに落胆した。
原因を調べたところ、妊娠中に他の部屋に移そうとしたら、カバはどう思ったのか大変怒ったそうである。それが、胎児を死に至らしめた主因であることが判明した。”カバもバカなことをしたものだ”という新聞記事が載ったことがあります。
腹を立てると肉体にも負担を与え、命を落とすことさえあります。まさに身を滅ぼすものが怒り、ではありませんか。
ある奥さんが朝食の支度の最中に包丁で手を切った。慌てて絆創膏を買いに出掛けるが、あいにく持ち合わせが一円足りず、店の主人に断られた。ムッとして家に戻り、今度は一万円札を握り締め、これでどうじゃと突きつける。ところが「こんな朝から一万円出されてもお釣りがない」と店主はすげない。カッとなった奥さん、店の前で灯油をかぶり火をつけた。ウソのような本当にあった話です。
先日も七十代の父親が四十代の息子を絞殺。「海苔の保管場所」が気に食わず、カッとなってやった、といいます。一時の怒りのために一生棒に振る悲劇は、後を絶ちません。
怒りっぽい西洋のある主人、使用人の不注意から夕食を小ヒツジに食われてしまった。目に角を立てしかり飛ばされた使用人は、腹いせにストーブに入れる火を小ヒツジの背中に投げつけた。毛に火のついた小ヒツジは驚いて小屋に飛び込み、何千ともしれぬヒツジの群れに火がつき、ついに家まで焼いてしまった、という寓話があります。
一人の怒りがどこまでも波及する。怒りは敵と思え、と古人は戒めています。怒りのヘビを口から出すのは下等。歯を食いしばって口に出さないのが中等。胸にヘビは狂っていても、顔に表さないのが上等の人でしょう。
ブッダは、欲や怒り、愚痴のかたまりが人間だと説かれています。それは、今日も全く変わらない姿ではないでしょうか。
Filed under: 未分類 on 7月 11th, 2011 | コメントは受け付けていません。
私とは何か。
自分を知ることは、幸せの第一歩です
今回は、怒りの心について学びましょう
仏さまは「見聞知」のお方といわれます。カゲでこっそりやっていても「見ておるぞ」。どんな小声で話していても「聞いておるぞ」。それだけじゃない。あなたが心で思っていることも皆「知っておるぞ」。私たちの心と口と身の行いすべてを仏さまはご存じなのです。
なかでも、仏教で最も重視されるのは、心です。なぜなら口や身は心の命令で動くのであり、心が火の元で、口や身は火の粉だからです。消火も火元に主力が置かれるように、仏教は常に心の動きに視点が置かれます。ここが、専ら口や身の行いしか問題にしない法律や倫理道徳と、ブッダの教えと、全く違うところなのです。
私たちは日々、心でどんなことを思っているでしょう。前回まで欲の心について学びました。その欲が妨げられた時に出てくるのが瞋恚、怒りの心です。
「あいつのせいで儲け損なった」「大勢の前で恥かかされた」「あの奴、この奴」と心で相手を切り刻むので、心の上に奴と書きます。腹を立てると真っ赤になり、理性も教養も吹き飛んで、すべてを焼き尽くすこと火のごとしなので赤鬼に例えられます。
腹を立て苦しむのはいつでも、〝己が正しい〟と思うのが原因であると、ブッダは教えられています。
親鸞聖人は「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(歎異抄)”縁が来たら、どんなことでもする親鸞だ”と言われていますが、聖人だけではありません。
カッとなると、平素思いも寄らぬ恐ろしいことを考え、言い、乱暴なことでもする。その結果、焼け野原に一人ぽつねんと立って泣かねばなりません。わずかの間を置いて、なぜ腹が立つのか、何が気に入らぬのかと、少しでも考える余裕が大切でしょう。
怒りは無謀に始まり後悔に終わるもの。腹立った時は数を数えよ、相手が怒った時は触れずにほっておけ、と先達は教えています。
Filed under: 未分類 on 6月 11th, 2011 | コメントは受け付けていません。
ブッダは、私たち人間を「煩悩具足の凡夫」(煩悩の塊)と教えられています。百八ある「煩悩」は私たちを「煩わせ悩ませるもの」。中でも恐ろしいのが貪欲(欲の心)、瞋恚(怒りの心)、愚痴(ねたみそねみの心)の三毒の煩悩です。欲について、前回からの話を続けます。
おいしいものが食べたい、金が欲しい、財産を得たい、愛されたい、楽したい。少しでもよく生きたいと願うほど、欲望は際限なく広がります。水がものを潤し、深さも知れないようなものですから、欲は青色で表されます。朝から晩まで私たちは、この心に動かされてはいないでしょうか。
芥川龍之介の有名な小説『蜘蛛の糸』には、欲の本性が描かれています。
血の池地獄で苦しむ大泥棒・カンダタを救おうと、極楽の蜘蛛の糸を、お釈迦さまは地獄に垂らされました。カンダタはその糸を上って地獄から逃れようとします。
途中でふと足下を見ると、何とたくさんの罪人たちが、後から上がってくるではありませんか。カンダタは驚いて叫ぶ。
「おまえたち、だれの許しを受けて上ってきた。この蜘蛛の糸はオレのものだ。下りろ」
こう喚いた、その時、今まで何ともなかった糸が手元でプツンと切れた。
あわれカンダタは、多くの罪人もろとも、血の池地獄へ再び堕ちていったのです。
自分ばかり地獄からぬけ出そうとする彼の無慈悲な心を、お釈迦さまは浅ましく思召されたのでしょう、と物語は結ばれています。
このカンダタのような心を、「我利我利」とブッダは教えられています。「我が利益」ばかり追い求め、自分さえよければ他人はどうなろうと構わない心です。
余裕のある時は人に譲る気持ちも起きますが、保身や利害にかかわるギリギリの局面ではどんな心が起きるか。よくよく自己を見つめてみましょう。
●まとめ
・自分の本当の姿を知ることが大事だ、と
ブッダは教えられています。
・仏教では私たち人間を
「煩悩具足の者」といわれます。
中でも恐ろしい煩悩が、
欲、怒り、ねたみそねみの三毒です。
・欲の本性は「我利我利」。
自分さえよければ他人はどうなってもよい、
という身勝手な心です。
Filed under: 未分類 on 5月 14th, 2011 | コメントは受け付けていません。
ブッダが説かれた、本当の自分の姿について、続けて学んでいます。
仏教では私たち人間を「煩悩具足の凡夫」(煩悩の塊)と教えられています。
「煩悩」とは、文字どおり私たちを「煩わせ、悩ませるもの」で、全部で百八あると説かれています。
中でも恐ろしいのが、貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみそねみ)の三つです。
これを「三毒の煩悩」というということまで前回、お話ししました。
ブッダが「三毒の煩悩」の初めに教えられているのは、「貪欲」です。
貪欲とは、底の知れない「欲の心」です。
無ければ無いで欲しい。有れば有ったでもっと欲しい、もっと欲しいと際限なく広がっていく心です。
ブッダは代表的な欲を「五欲」と教えられました。
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五つです。
食欲とは食べたい、飲みたいという心。
財欲とは金が欲しい、財が欲しい。
色欲とは男女の欲。
名誉欲とは人から褒められたい、悪口言われたくない。きれいな人だ、かっこいい、人格者だといわれたい。
睡眠欲は一分でも長く寝ておりたい、楽したいという心です。
朝から晩まで、私たちの活動は、欲望以外にあるでしょうか。
欲があるからこそ、喜べるのに、なぜそれが「煩悩」なのか、と思われる方もあるでしょう。
この「欲」が、どんなに恐ろしい心であるか、ブッダは教えておられます。
Filed under: 未分類 on 4月 11th, 2011 | コメントは受け付けていません。