無上の道──釈尊とワシとハト

ブッダが修行をしていたころの話です。
ある日、飢えに死にかけたワシがブッダに尋ねました。
「ここへ、ハトが来ませんでしたか?」
「ハトなら私の懐にいる」
意外な返事に元気を取り戻したワシは、思わず口にしました。
「ヤレヤレこれで生き延びられる。どうかハトを渡していただけないでしょうか。餓死寸前の私が見つけたハトなのです。逃しては死ぬほかありません」
ブッダの胸にはハトが、小さく震えながらうずくまっています。ブッダは端然と座り、目をつぶったまま沈黙しています。
ワシは次第に心配になってきました。
“……よく考えれば、出家は生き物を殺さないというじゃないか。ならば、みすみすハトを差し出すだろうか。だが、ほうっておいてはこのオレが死ぬ。オレを生かすには、ハトを死なさねばならんだろう。かと言ってハトを助ければ、オレが救われん……”
その時、ブッダは静かに言いました。
「ワシよ、汝の飢えはハトでなければ救えないのか?」
意図が分からず、ワシは沈黙しました。
「このハトの肉でなければ、そなたの飢えはしのげないのか?」
ブッダが言葉を換えて尋ねると、ようやくワシは口を開きました。
「そんなことはありません。同じほどの肉であれば、私は死なずにすみます」
「ならばどうじゃ。同じ量の肉を与えるから、ハトを助けてはくれないか」
“そんな肉片がどこにあるというのか?”といぶかったが、一応納得し、何が起きるのかを見守りました。
そのあとのブッダの行動に、ワシは目をみはった。何と彼は、自ら片方の腿の肉をそいで、ハトの目方と合わせた。だが、まだ軽かったのだろう。もう一方の肉をそいで量る。まだ足りぬのか、身体のあちこちの肉をそいで、ハトの目方と同じ量の肉を集め、優しく与えてくれたのでした。
このブッダの志によって、ワシはようやく飢えを満たした。ハトも死を免れて喜びました。
ともに生命を全うしたのを見て、ブッダも喜んだという。
ワシに慈悲心を教えるのも尊い。
ハトに諦観を説かねばならぬこともあるでしょう。
しかしブッダは、最も困難で、苦しい道を進まれたのです。
それは最高無上の道であるからです。
浄土真宗親鸞会の人に、この話を教えてもらいました。
とてもブッダのようなことは出来ないかも知れませんが、せめて身近なこと、それがちょっと自分の損になったり、面倒なことであっても善いことをしていこうと思いました。
親鸞会の人と接していると、心が洗われるようです。
会長の高森顕徹先生も、なにか教祖みたいなイメージはまったくなく、とても親しく感じられるので、また話を聞きにいこうと思います。

三人の妻

ブッダにまつわるお話です。
『三人の妻』
ブッダはつぎのようなたとえ話をしました。
「昔、ある金持ちの男が三人の妻を持って楽しんでいた。金持ちは第一夫人を最もかわいがって、寒いと言ってはいたわり、暑いと言っては心配し、贅の限りを尽くさせ、一度も機嫌を損なうことはなかった。
第二夫人は第一夫人ほどではないが、種々苦労し、他人と争ってまで手に入れたので、いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。
第三夫人は寂しい時、悲しい時、困った時だけに会って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その金持ちが重い病で床に伏すようになる。
刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、”ぜひ死出の旅路の同道を”と頼んだ」
“ほかのこととは違い、死の道連れだけは、お受けすることはできません”
すげない第一夫人の返事に、男は絶望の淵に突き落とされた。寂しさに耐えられぬ男は、恥を忍んで第二夫人に頼んでみた。
“あなたが一番かわいがっていた彼女でさえ、イヤとおっしゃったじゃありませんか。私もまっぴらご免でございます。あなたが私を求められたのは、あなたの勝手。私から望んだのではありません”
案の定、第二夫人の返事も冷たい。男は恐る恐る、第三夫人にすがった。
“日ごろのご恩は決して忘れてはいませんから、村外れまで同道させていただきましょう。しかし、その先はどうか堪忍してください”
結局、三人ともに突き放されてしまったのだ。」
これは例えですが、何を表していると思われますでしょうか?
金持ちは我々人間のこと。
第一夫人は肉体、第二夫人は金・銀、財宝、第三夫人は父母、妻子、兄弟、朋友などを例えられたものです。
生あるものは必ず死に帰す。臨終には、今まで命にかえて大事に愛し求めてきた三人の妻と別れ、一人、旅立たねばなりません。後生へ踏み出すその時に、何かあて力になるものがあるでしょうか?生涯かけて求むべきは何だったのかと、問わずにはいられないはず。ブッダは、永遠に崩れぬ幸福のあることを、明らかになさっているお方なのです。
親鸞聖人は、この本当の幸福のことを「無碍の一道」と言われています。
親鸞会の話でも何度か出てきました。
さわりがさわりとならない本当の幸福のことをいうのだそうです。

命は足が速い

少しずつブッダの物語について書いています。
『命は足が速い』
あるとき、ブッダは弟子にこう話しかけられました。
「そなたもこのごろは、命の短く脆いことがうなずけてきたらしい」
合点して弟子は言いました。
「本当にそうでございます。たちまち消え失せてしまいます」
「”たちまち”と言っても、感じようもいろいろだが……」
ブッダの一言に、”仏さまの感じられる命の短さとは、どれほどのものなのだろう?”と、弟子は疑問を起こしました。
「世尊がお感じになっているそれは、どれぐらいの速さでございましょうか」
「そなたにはとても納得できまい」
そう聞いた弟子は聞きたい気持ちが抑えられなくなり、なおも尋ねると、ブッダはこう言われました。
「例えばここに、弓の名人が四人いるとする。そのうちの一人は東に、一人は南、一人は西へ、そしてもう一人は北を向き、それぞれの方向の彼方に的を定め、心を合わせて一度に矢を放つ。名人の放つ矢は目にも留まらぬ速さで飛ぶ。そこに足の速い男がいて、サッと走りだしたと見る間に、四人の弓師が放った矢を引っ捕らえてしまったとしよう。どうだ。この男の足は速いだろう?」
「それは速いです。とても速いです」
興奮ぎみに弟子は言いました。やや間を置いて、ブッダは仰せられた。
「それよりも、もっと速いのが人間の命なのだ。命は実に足が速い」
たしかに振り返ってみれば、5年10年なんてあっという間ですね。
いえ、人生80年といっても瞬く間かもしれません。だからこそ一日一日を大切にしたいものです。
親鸞会の講演でも会長の高森顕徹先生が「一生過ぎやすし」という蓮如上人(れんにょしょうにん)の言葉を通して話されていたのを思い出しました。
親鸞聖人も、無常を観じて9歳で出家されたといいます。
日本に古来から伝わる無常観、とても大事だと思います。

智恵ある者に怒りなし

大宇宙最高の仏のさとりを開かれたブッダに関する話を書いています。
『智恵ある者に怒りなし』
「そなたは祝日に、肉親や親類の人たちを招待し、歓待することがあるか」
ブッダの静かな問いかけに、先刻から、辺り構わずどなり散らしていた邪教徒の男は、
「そ、そりゃ、あるさ」とかろうじて答えました。
訪れてから今まで、悪口雑言を浴びせ続けているが、全く挑発に乗ってこないブッダに焦りを感じていたところでした。
ブッダは続けて尋ねられました。
「親族がその時、そなたの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」
ブッダは「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受け取らなければ、その罵詈雑言は、だれのものになるのか」
核心に触れたと思った男は、ムキになって反論した。
「いや、いくら受け取らなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとはいえない」
ブッダに突っぱねられた男は、訳が知りたくなる。立場が逆転し、その男は、自らブッダに問うようになりました。
「それなら、どういうのを受け取ったといい、どういうのを受け取らないというのか」
ブッダは答えて、「ののしられた時、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受け取ったというのだ。しかし、その反対に、何とも思わないものは、与えたといっても受け取ったのではないのだ」
さっきから感じていたことを言い表された気がして、男は重ねて尋ねた。
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
ブッダは厳かに、偈で答えられました。
「智恵ある者に怒りなし。
 よし吹く風荒くとも、
 心の中に波たたず。
 怒りに怒りをもって報いるは、
 げに愚か者のしわざなり」
百雷に打たれたような衝撃が心に走った。外道の若者は「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」
落涙平伏し、仏に帰順したのです。

エピソード「毒矢を抜け」

二千六百年前、三十五歳で無上のさとりを開かれ、ブッダ(仏陀)となられたお釈迦さまにまつわる話を書いていきたいと思います。
「まず毒矢を抜け」
ある日、ブッダが大樹の陰で瞑想なされていた時、ブッダにある男が近づいてきてこういいました。
「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、葉の数を知っているか」
ブッダは静かにこう答えられました。
「知りたければ、そなた、数えてみよ」
「戯論(けろん)」という言葉があります。
議論のための議論、机上の空論、人生に真面目でない議論のことをいいます。
戯論に応ずることも、また戯論。
本質と無関係な議論をブッダは相手にされなかったわけです。
生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからです。
ブッダは次のようなたとえ話でそのことを教えておられます。
「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。一刻も早く抜かなければ命が危ない。友人たちは、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』と勧めたが、男は、『いや待て。この矢はだれが射たのか。男か、女か。その者の名前は。何のために矢を射たのか。矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、この矢を抜いてはならん』と言い張った。やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」
無常は迅速です。
今、こうしている間にも、老いや病、そして死の苦しみが現実にあるではありませんか。私たちは苦悩の根本原因と、その解決の道を説く仏教こそ真剣に聞かねばなりません。人生の大事は何かよくよく知らねばならないのです。


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