ブッダ~エピソード

二千六百年前、三十五歳で無上のさとりを開かれ、仏陀となられたブッダにまつわるお話です。
『石は、自らの重さで沈んだのだ』
ブッダが精舎に来られたときある弟子が尋ねました。
「ブッダよ、長い経文を読んでもらったら、地獄に堕ちている者でも極楽へ往けるという人がありますが、本当でしょうか?」
聞き終わられるとブッダは、無言で立ち上がられました。
修行者が仲間に目くばせする間にも、ブッダはゆっくりと部屋を出られ、精舎の外へ歩まれます。戸惑いながらも友を引き連れ、彼はあとに従いました。
庭には池がありました。黙然とその淵に立たれると、ブッダは拳ほどの石を手に取られ、中へ投げ込まれました。小さく水しぶきを上げ、石はみるみる沈んでいきます。
波紋が小気味よく広がり、池全体を同心円が覆ったころ、ブッダは静かにおっしゃっいました。
「そなたたち、この池の周りを、石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれと言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか」
“まさか” 修行者は法友たちと顔を見合わせ、申し上げた。
「世尊、そんなことで石が浮かぶはずがありません」
池に目をやると、水面は徐々に静まり、石はすでに影も形も見えない。
「そうだろう。石は、石の重さで沈んでいったのだ。どんなに浮かび上がれと言ったところで、浮かぶものではない。人は、己の過去に造った悪業によって、悪因悪果、次の世界に沈むのだ」
“読経や儀式で死人の果報が変わるはずがない”得心したように、弟子はうなずきました。
「生きている今、弥陀の本願に救い摂られるのが仏教の目的」
ブッダはそう教えられたのです。
先日の浄土真宗親鸞会のアニメ解説というご縁で、ちょうどこの場面を見ました。
浄土真宗の祖師親鸞も、肉体の葬式より魂の葬式を大事にされたと聞いています。
形よりも心、ですね。

エピソード「毒蛇に気をつけよ」

世界の偉人の代表といえるブッダについて書いています。
「毒蛇に気をつけよ
── 身を責める財宝」
久しぶりの晴れ間に誘われて、庭先で農具の手入れをしている男の耳にこんな会話が聞こえてきました。
「そこに、毒蛇がいるぞ。かみつかれぬように」
「ハイ、心得ております」
言葉遣いから、托鉢の修行者らしいと分かりました。
驚いた男は、”毒蛇”の所在を確かめようと、道路のほうへ回って、恐る恐るのぞいてみました。
“あれはブッダ・シャカムニとその弟子に違いない”。かつて一度だけ見たことがあった。
“はて、ところで毒蛇はどこだ?”。と探しに道へ出ると、近くの大木の根元に、まばゆい金銀財宝が顔を出しているではありませんか。
「これが毒蛇……?昔、だれかが埋め隠したのが、大雨で洗い出されたに違いない。こんな宝を毒蛇と間違うとは、釈迦も、まぬけやろうだ」
“一生働いても手にできないほどの財宝、逃す手はない”。目の前に横たわる宝物に心奪われた男は、早速、掘り返し、持ち帰ると妻子は狂喜乱舞しました。
男の生活は、たちまち華美になり、豪奢な家や家財、贅を尽くした食事、振る舞い。近隣から不審の立たぬはずはなく、うわさは大風にあおられた火事のように広がり、ついに王の耳にも入りました。
法廷に呼び出され、厳しい詮議に音を上げた彼は、すべてを白状しました。
「かかる大枚の財宝を横領するとは、許せぬ大罪。死刑に処するが、三日間の猶予を与える」
激怒した王から言い渡された罪状を、帰宅した男は家族に告げた。
「ああ、ブッダ・シャカムニはやはり偉かった。あれは間違いなく毒蛇だった。オレがかみ殺されるだけでなく、妻子にまで毒がまわり、大変なことになった。家族そろって平和に暮らせるのが何よりだ。財宝が、かえって身を責める道具になった」
“毒蛇”の深意が身にしみた男は、心から懺悔した。豪邸も財物もごちそうも、一切が喜べなくなり、ただ、家族と嘆き悲しむのみだった。
翌日、突如、王からの呼び出しがかかった。
“死刑が早まったのか”。青ざめて出廷すると、昨日とは打って変わって穏やかな表情の王は、一言、
「おまえの罪は許す」。
大恩赦である。キツネにつままれたような心地で男は、王の話を聞いきました。
「おまえが帰る前に家臣を床下に忍ばせ、すべてを聞いた。ブッダのお言葉から、おまえの懺悔。考えてみると、おまえばかりが毒蛇にかまれるのではなかった。取り上げるオレも、酒色におぼれ、国を破滅させるところだった。財宝はブッダに使っていただこう」
王の使いによって一部始終を聞かれたブッダは、微笑されながら、
「この世の宝は身を苦しめる道具になることが多い。早速、みんなが絶対の幸福になる仏法を伝えるために使おう」
と、お預かりになったといいます。
大臣や総理まで務めた者が獄舎につながれ、毒にあてられ、悩んではいないか。毒蛇の被害者は、周囲に満ちているのではないでしょうか。
浄土真宗の開祖親鸞は
「愛欲の広海に迷惑し、名利の大山に迷惑して」
と教行信証に書いていますが、その意味について、浄土真宗親鸞会で話を聞いてきました。
愛欲とは、男女の欲のこと
名利とは、名誉欲と利益欲のこと。
私たちはこの欲に振り回されているのだなと反省させられました。
親鸞会で話を聞くと、必ず何か気づかされることがあるので、また聴きに行こうと思います。

エピソード「毒矢を抜け」

二千六百年前、三十五歳で無上のさとりを開かれ、ブッダ(仏陀)となられたお釈迦さまにまつわる話を書いていきたいと思います。
「まず毒矢を抜け」
ある日、ブッダが大樹の陰で瞑想なされていた時、ブッダにある男が近づいてきてこういいました。
「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、葉の数を知っているか」
ブッダは静かにこう答えられました。
「知りたければ、そなた、数えてみよ」
「戯論(けろん)」という言葉があります。
議論のための議論、机上の空論、人生に真面目でない議論のことをいいます。
戯論に応ずることも、また戯論。
本質と無関係な議論をブッダは相手にされなかったわけです。
生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからです。
ブッダは次のようなたとえ話でそのことを教えておられます。
「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。一刻も早く抜かなければ命が危ない。友人たちは、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』と勧めたが、男は、『いや待て。この矢はだれが射たのか。男か、女か。その者の名前は。何のために矢を射たのか。矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、この矢を抜いてはならん』と言い張った。やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」
無常は迅速です。
今、こうしている間にも、老いや病、そして死の苦しみが現実にあるではありませんか。私たちは苦悩の根本原因と、その解決の道を説く仏教こそ真剣に聞かねばなりません。人生の大事は何かよくよく知らねばならないのです。


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