巨大な樹木も一粒のタネから

仏教を説かれた、ブッダ(仏陀)にまつわる話を書いています。
「巨大な樹木も一粒のタネから」
ある日、ブッダがお弟子を連れて村を訪れ、托鉢をして歩かれました。
たまたま、そのお姿を拝した貧しい女が深い尊敬の念を起こし、
「なんと尊いお方だろうか。ぜひ何か差し上げたい」
と、布施を志し、女はブッダに、自分たちの昼食のために用意した「麦こがし」を施すことにしました。「麦こがし」とは大麦を煎って焦がし、うすでひいて粉にしたものです。
鉢に麦こがしを差し上げた時、ブッダは弟子の阿難に向かってこういわれたそうです。
「この女は今の尊行によって、やがてさとりを開くであろう」
すると傍らにいた彼女の夫が、おもむろにブッダに歩み寄り、腹を立てた様子で食ってかかりました。
「そんな出任せ言って、麦こがしを出させるな。取るに足らぬ布施でどうしてそんな果報が得られるか」
ブッダは、静かに、
「そなたは世の中で、これは珍しいというものを見たことがあるか」
『いきなり何だ』と男は戸惑いつつも、「珍しいもの」と問われ、村の大樹を思い出しました。
「あの多根樹ほど不思議なものはない。一つの木陰に五百両の馬車をつないでも、まだ余裕があるからな」
続けてブッダは問われて、
「そんな大きな木だから、タネはひきうすぐらいはあるだろう。それとも飼い葉桶ぐらいかな」
「とんでもない。そんな大きなものではない。ケシ粒のほんの四分の一ぐらいしかない」
ブッダは答えて、
「そんな小さなタネから、そんな大きな木になるなんて、だれ一人信じないね」
ブッダの言葉に、男は大声で反論しました。
「だれ一人信じなくとも、オレは信じている」
ここでブッダは言葉を改め、
「どんな麦こがしの小さな善根でも、やがて強縁に助けられ、ついにはさとりを開くこともできるのだ」
ブッダの当意即妙の説法に、夫は自身の誤りを知らされた。直ちに己の非をわび、夫婦そろって仏弟子となったのです。

エピソード「毒矢を抜け」

二千六百年前、三十五歳で無上のさとりを開かれ、ブッダ(仏陀)となられたお釈迦さまにまつわる話を書いていきたいと思います。
「まず毒矢を抜け」
ある日、ブッダが大樹の陰で瞑想なされていた時、ブッダにある男が近づいてきてこういいました。
「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、葉の数を知っているか」
ブッダは静かにこう答えられました。
「知りたければ、そなた、数えてみよ」
「戯論(けろん)」という言葉があります。
議論のための議論、机上の空論、人生に真面目でない議論のことをいいます。
戯論に応ずることも、また戯論。
本質と無関係な議論をブッダは相手にされなかったわけです。
生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからです。
ブッダは次のようなたとえ話でそのことを教えておられます。
「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。一刻も早く抜かなければ命が危ない。友人たちは、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』と勧めたが、男は、『いや待て。この矢はだれが射たのか。男か、女か。その者の名前は。何のために矢を射たのか。矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、この矢を抜いてはならん』と言い張った。やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」
無常は迅速です。
今、こうしている間にも、老いや病、そして死の苦しみが現実にあるではありませんか。私たちは苦悩の根本原因と、その解決の道を説く仏教こそ真剣に聞かねばなりません。人生の大事は何かよくよく知らねばならないのです。


Copyright © ブッダとは? All Rights Reserved.